「きょういくしゃ」で浮かぶものは?
「きょういくしゃ」
この「ことば」を耳にしたとき、頭に浮かぶのは何が浮かびますか?
「きょういくしゃ」=「教育者」ではないでしょうか?
うん!そうかもしれない。
ワタシが浮かぶ「きょういくしゃ」って聞くとは学校の先生思い出すかな😄
学校の先生を思い出しますよね!?
「きょういくしゃ」って言葉を聞くと、学校の先生が浮かぶ人が多いのではないかなって思います。
実際に臨時職員として高校の事務員として勤めていた時、学校現場を「教育」現場と言っていたし、生徒や学生に指導する学校や学校のイベントなどを事務サポートする教育委員会も「教育」現場であるって聞いた覚えがある🤔
それに、ワタシたちがよく目にしたり耳にする新聞やテレビ、ラジオなどのマスメディアも[学校現場=教育現場]と伝えているのだから「きょういくしゃ」と聞けば、学校の先生を思い出し、「教育者」となるのは当たり前なんですけどね…😅
生徒や知識・経験のある「先生」が、知識・経験のないまっさらな「生徒、学生」に、「教え」て「育て」ていくこと。それは、ワタシ自身も小学校から中学、高校と経験してきていることなので、わかってはいるのですが…。
「きょういく」は学校現場だけじゃない!?
だけど、「きょういく」って言葉は学校現場だけでしょか?
学校現場以外にもにも目にしたり、耳にすることありませんか?
たとえば、ビジネスの場!
新社会人だったり、新しい業務をするようになると、「研修」があり「教育者」が必ずいると思うのです。テキストだけの配布でも、わからないことを聞ける体制にあれば、その答えをくれる人は「教育者」だし、動画を見るだけでも、動画内の説明をしてくれる人も「教育者」であると考えます。
そういえば…。
研修のときは「教育」って言葉耳にしたことあるわ。
だけど、「教育者」ではなく、「教育係」だったと思うんだけど…。
そうですよね!?
きっと、「きょういくしゃ」って言葉は目にするし、耳にもするけれど、学校の先生と同じように、知識・経験のない人に「教え」て「育て」ていくけれど、研修のときに「教育者」って漢字を書いていることはあまり見られないと思います。
むしろ、「教育係」って書いているところが多いのでは…🤔(ワタシの個人的な見解ですが…)
なんとなく「教育」に「者」をプラスして「教育者」となるだけで、これもまたワタシ個人の考えなのですが、教える側には目に見えない知識・経験という土台があって、スタート時点から教わる側との「差=高さ」を感じてしまうのです。
ワタシはこの「差=高さ」が苦手なんです。
たしかに、知識もあって経験も豊富なのだから、プロフェッショナルでベテランだとは思うけれど、知らず知らずのうちに、知識・経験でできた土台の上から、何もわからない知識・経験の乏しい人に対して、見下ろした姿勢になっているコトがあるのでは…。
スタート時点ではその「差=高さ」を意識することなく、教えてもらおうとする気持ちでいても、見下ろされ続けると、そのことだけで圧倒され、自分は「この仕事向いていない」「ダメな人間だ」って気持ちにならないとも限らないと思うのです。
決して教える側の人が常にそんな姿勢だってこともないし、そんな気持ちで人に教えるってこともないハズだし、教わる側も自分を責める必要もないし、決してマイナスな気持ちになることもないのです。
そんなコトって当たり前ですよね!?
では、なぜ教えるのか?
「学校」現場においては、「教育」が主たる業務だから常に「教える」ことはわかるけれど、「学校」現場以外ではどうなんだろう???
なぜ教わるのか?
こちらも「学校」現場においては、必然的に「教わる」ことはあるけれど、「学校」現場以外ではどうなんだろう!?
こんな風に、あらゆる場面で[教える]と[教わる]はセットになっているとおもいます。
「きょういく」にありがちな落とし穴!?
さまざまな理由があり「教える」「教わる」があることも理解できます…😐
◎「教えて育てる」
◎「教わって育っていく」
それぞれが「教育」に間違いはないのですが…。
本当にこれだけで良いのかな?とワタシは疑問が浮かびます。
「教える」側にも、「教わる」側にも、共通にして言える落とし穴がある!!と思うのです。
「学校」現場において時々耳にするのが、新学年になった時に
◎担当する先生が「ベテラン先生」で良かった😆
◎担当の先生が「新人の先生」だからちょっと心配😟
この言葉、よく耳にする言葉だよね?
でも、これって、当たり前だと思うんだけど…。
当たり前に感じますよね?「ベテラン先生」に「新人先生」ですものね😅
もし、何かトラブルがあった時は、「ベテラン」と言われる先生の方が、対応が早いハズ…って考えるのは当然です。確かに応用力があるのは事実です。
これは、「学校」現場だけでなく「教える」「教わる」という状況では同じことが言えますよね?
でも、「教える」側が「ベテラン」と言われる人でも「新人」と言われる人でも同じ立場になることがあるんです!!
それがどういう時か、わかりますか!?
今までしたこともない事を「教わる」とき、知識も経験もない状態で教えてもらいますよね?そして「教える」側は「ベテラン」と言われて経歴は長くても、何も知らない人に教えますよね?同じ人が続けて「教わる」こともありますが、スタート時点では「はじめまして」ですよね。
それは「新人」と言われる人も、「ベテラン」と言われる人もスタート時点は同じなのです。
「教える」側が経歴は長くても、「はじめまして」と出会った人と別の誰かを同じように「教える」ことをしてもうまくいくとは限らないのです。「教わる」側も「はじめまして」と出会った人から別の誰かと同じように「教わる」ことをしてもうまくいくとは限らない…。ワタシはそう考えます。
「はじめまして」を忘れがちになる!それが落とし穴!!
「きょういくしゃ」は「教育者」から「共育者」でいてほしい!!
人に「教え」、育ってもらう「教育」。
人から「教わり」、育っていく「教育」。
その「教育」は確かに大切なものでなくしてはいけないものだけど、ついつい忘れがちになる「はじめまして」の気持ち。
きっと「教える」側も「教わる」側がかわれば、その時に新たな「教える」方法を考え新たな学びがあり、「教わる」側も「教える」側がかわれば、「教わる」方法も考え、新たな学びがあるのです。
「はじめまして」の気持ちを忘れずに、同じスタート地点にたって、共に教え教わりながら、知識・経験を積み重ね、育っていく人「きょういくしゃ=共育者」でありたいと考えます。
みなさんはどう感じ、考えますか?